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vol.3

今月のことば

21世紀の日本における法律サービスの需要と供給のあり方

反町 勝夫
■ LEC東京リーガルマインド代表取締役会長 ■ 


1.法律教育で何が問題なのか
 今までの大学法学部教育は、日本が発展途上国であった明治期のものをそのまま引きずっている、即ち、知識偏重である、それも輸入法理論の解釈偏重である。大学法学部教授の教え方がそうなのである。大学法学部教授は、学生に対して実務を訓練しないし、自らも実務を持たない。フィールドワークもしない。
 ところで、法律業務は医術と同じく、知識のみではない。訓練(臨床実務)が大切なのである、司法研修所の研修は、起訴状の起案、弁論書の準備、判決書の作成など、すべて修習生の「訓練」である。知識を授ける大学法学部と違う点はそこにある。
 日本では、この実務研修を行う訓練の場が、
司法研修所だけに限られているから(そしてそれを増設する予算がないという理由によって)、法曹人口が少ないという問題が生じているのである。言いかえれば、司法研修所と同じ実務訓練を行う場を民間の自由に任せれば、即ち、弁護士や裁判官や検事が自由に教える場を認めれば、そしてそのような訓練を経た者を実務法曹と認めれば艮いのである。そうなれば法曹人口は「市場」が自ら決めることになるのである。
 注記するが、このような司法研修の場を、現在の大学法学部が提供できるとは考えられないし、現在の法学部教授を母体とした法律大学院構想においても、提供能力があるとは思われない。


2.法曹人の専門的能力の水準を決めるのは誰か
 法律資格者の人口の問題を議論する時に、必す出て来るのが、この資格者の専門的能力の水準をあまり下げてはならない、というような議論である。水準を下げると一般大衆に悪い法律サービスが提供されることになり、一般人の為にならないという論理である。現在も適正法曹人口は何人でよいかという論が、アメリカやヨーロッパとの比較の上でしきりと議論されている。しかし、それを「誰が」決められるのであろうか。
 弁護士など既存の資格者が競争は少ない方を好むのほ当然であろうから、弁護士団体などをこの議論に巻き込めば出来るだけ少ない数に止めようとする力学が働くのは当たり前であろう。既存法曹の同意を前提にする限り、そのような反対で議論が進まないのは当たり前である。現に司法試験合格者500名から今日の800名に増員するだけで20年もかかってしまうのである。


 それでは、それを決めるのは法務省や最高裁事務局のような官僚であろうか。これも否であろう。数十名・数百名の法務完了に1億2,000万人、4,000万世帯の国民、480万の会社法人の法律需要やその要求水準など判断できる材料はないし、わかりはしないのである。それではマスコミ人や大学教授など、いわゆる学識者でそのような審議会に選ばれた人がそれであろうか。これとても同じであって国民の要求する適正水準など決められるものではあるまい。国会議員とて同じである。国会議員が国民の代表者であるからと言って、 選挙民全員の法律需要など把握のしようがないではないか。
 結論として、国民の需要する法律サービスの水準を決め、ひいては法曹人口の適正水準を決めるのは、大衆の欲求の総和である「市場の力」である。大衆が法律サービスに満足すれば、依頼者が増え、満足しなければ、依頼者が減り、法律サービスの提供者である法曹人は食べて行けなくなるから、他の職種に転じて行く。この需要と供給のバランスの上に法律サービスの水準と法曹人口が決まるのである。要は「市場の力」に任せれば艮いのである。


3.高度情報知識社会では専門が細分化し
     学際的になり新しい資格が出て来る
 現在のような高度な社会となると、国民の一人一人が自分の興味により専門家となる。個人の専門が多様化するのである。法律家であっても、一般の訴訟弁護士だけでなく、例えば、サイバースペース法の専門家、インターネット法の専門家、バイオテクノロジー法の専門家、遺伝子法の専門家、等々際限なく分かれて行く。裁判だけが法律家の仕事ではなく、 デリバティブやセキュリタイゼーションの法律書類の作成者、品質保証書作成の専門家、外国人の移民書類作成の専門家など数々の専門が生まれる。
 専門化の一方で、学際的な分野を担当する人も出て来る。会計と法律の両者、税務と法律の両者、科学技術と法律の両者、等々インターディシプリーナリーな分野を専門とする人も輩出してこよう。


 要するに、高度な知識社会においては、法律家とか法曹人とかで、くくれないような分野の職種が出て来るのである。アメリカでは、ペット法の専門家、遺伝子生殖法の専門弁護士、異人種の養子斡旋専門弁護士、スポーツ選手や芸能人の専門代理交渉人など特化した法律関運職種がどんどん生まれている。日本も急速にそのようになるであろう。このような専門の多様性を認める高度知識社会となったときに、一々そのような資格を作るべきであろうか。国家資格としては到底不可能であろうし、また、公的団体の資格としても、試験や検定は不可能ということになろう。
 ということは、これもまた「自由な市場競争」に任せればよいのであって、規制すべきことではないのである。呼称の自由、職業の自由、利用の自由の中から高度知識社会が生まれてくる。すなわち、上述したような極めて多様化した特殊な専門分野の法律職の学校を自由に設立、運営し、その呼称を認め、そのような専門家の営業を自由にすることである。このような学校は時に大学であり、時に各種学校であり、時には私塾であるかもしれない。その問に格差はない。市場の競争に任せれば、良い学校は生き残り、悪い学校は消えて行くことになるのである。


4.法律家は聖職か
 法律家は医者と並んで聖職であるから軽々しく認めるべきではないとする論もある。ここで気をつけなければならないのは、法律家を聖職であると認めたのはその時代の「社会」であるということである。中世の社会において、法廷が未だ大衆のものでなく、王の権力の下の神聖なものであった時期においては、確かに法律家は聖職であったが、現代は中世ではない。法律家は大衆に対し「法律サービス」を提供する役務の供給者であって聖職者ではない。 サービスを売り、その対価を金銭で得ているのが現代の法律家である。そのサービスに欠陥があれば賠償責任が生じることは他のサービス業と同じである。既に人の生命を預かる医療においてすらも、聖職とは言わず、医療サービスとして把握されている。聖職であるかどうかは、弁護士自身ではなく、「社会」が決めることであることをしっかりと承知していなければならない。


5.結諭
 以上を要約すると、法曹養成については自由にし市場に任せようということにつきる。バラエティのある資格と法律専門職を認め、これに呼称と営業の自由を与えることである(これに支障となる弁護士法72条や、司法書士法19条は改正ないし廃止を必要とする)。
 この養成のための学校は自由化し、私塾でも各種学校でも大学院と同格に認める(ただし、実務訓練のカリキュラム、研修時問数等は、
一定のガイドラインを「民間が」作成してこれを公表し遵守することは有益であろう)。そのようなバラエティのある資格者を自由に競争させ、大衆に選択させる、それが21世紀の知価社会のかたちである。知識が一部特権階級のアクセサリーではなく、一般的・全般的に市民・企業の商品・サービスとなるということであり、そこでの指導原理は市場のカである。いわば、知識分野における市場原理の貫徹ということができよう。



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