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2000.vol.2
特別寄稿
石油の世紀・化学の世紀
――さようなら20世紀(2)
株式会社インサイダー代表 高野 孟 氏

 18世紀から19世紀にかけての石炭の世紀を主導したのはイギリスだった が,20世紀の最初の3分の1を通じて石炭から石油への転換が進行して,や がて地球が変調をきたすほどのエネルギー利用の大爆発が起きた.その石油 の世紀を支配したのは米国だった.
 米ペンシルバニア州で,エドウィン・ドレーク大佐が初めて油井を立てて パイプで石油を機械的に掘削することに成功したのは1859年で,その11年 後には早くもジョン・D・ロックフェラーがスタンダード石油を設立してい る.さらにその3年後の
1873年にはロシアが,後々まで「世界最大の油田」 となるバクー油田の開発に着手し,それを英仏にまたがるユダヤ財閥ロスチ ャイルド家が支援し始めた.
 当時,繁栄の絶頂にあったイギリスは,北海油田はもちろんまだ発見もさ れていなかったので,崩壊の淵にあったオスマン・トルコ帝国に手を突っ込 んで,あちこちの部族を対トルコ反乱に煽り立てては石油利権を確保した. イギリスが1901年,最初に獲得したのはペルシャの石油利権で,1908年に 掘削に成功し,アングロ・ペルシャ(後のブリティッシュ・


ペトロリアム) が設立された.「石油を制する者は20世紀を制する」と確信していたのは若 きチャーチルで,彼は1911年に海運大臣になるとすぐに,他国に先駆けて 軍艦と商船の燃料を石油に転換した.


◆石油戦争
 第1次世界大戦は二重の意味で最初の石油戦争だった.戦争の原因は複雑 だが,少なくともその重要な一面は,欧州列強によるトルコ帝国の分割を通 じての中東・北アフリカの石油利権にあったし,またその戦争を遂行する手 段として,初めて石油で動く飛行機,軍艦,戦車などの“近代兵器”が登場 した.戦後,イラン,バーレーン,クウェート,サウジアラビアなどで石油 開発が活発となり,1930年代になると米国のスタンダード石油やガルフ石油 もこの地域に進出した.
 その頃には,先の大戦で石油獲得に遅れを取ったドイツが,再び戦争を仕 掛けて,特にソ連に攻め入ってバクー油田を手に入れようとするのではない かということが軍事常識として語られるようになり,スターリンのソ連は必 死で重化学工業・軍需工業の育成に励んだ.果たしてナチスは39年ポーラ ンドに侵攻して第2次大戦を引き起こし,その2年後にはソ連に攻め込んだ.
 他方,日本は同じく41年に中国大陸から転じてインドシナ,マレー半島 を攻める


と同時に真珠湾攻撃を敢行し,翌年早々にはインドネシアを攻略し てオランダが同地に築いた油田を抑えた.
 これ以後,ベトナム戦争や湾岸戦争などの大きな戦争の多くは,石油に絡 んでいたし,また中東・北アフリカや中南米で繰り返された革命と反革命の 交錯も石油利権の争奪を背景としたものが少なくなかった.そのようにして, 強大な武力を持つ者が石油をはじめとした資源を自由に支配してあらん限り の贅沢を楽しむという野蛮がまかり通ったのが20世紀だった.
 しかし,72年のローマクラブ『成長の限界』はやや悲観的に過ぎたかもし れないが,石油の海に浮かぶかのような米欧日=先進国の繁栄がいつまでも 続くものではないという指摘は正しかった.その翌年には,第4次中東戦争 をきっかけにアラブ諸国が石油禁輸を断行,それまで石油メジャーズの支配 秩序の下で1バーレル=2.9ドルというタダ同然の価格に抑えられていた石 油が11.65ドルに跳ね上がり,さらに81年には34ドルに達して,車に乗り 放題の先進国にガソリン・パニックを引き起こした.


 石油はそう簡単になくなりはしないが,2010年を超えると次第に今まで通 りのコストでは掘れなくなることは確かで,その時に例えば巨大な中国が成 長を遂げて車文明に本格的に加わるようなことになれば,たちまち逼迫する. そのような資源的な制約に加えて,地球温暖化など環境的な制約もあって, いま我々は21世紀のいつまでガソリンで走る車に乗り続けるかを自問しな ければならなくなっている.


◆コールタール
 20世紀はまた化学の世紀で,これも石油,そして戦争に深々と結びついて いる.
 ロンドンの市街にガス灯が点ったのは1811年である.当時はまだ石炭の 時代で,このガスは石炭を乾留して作ったが,その時に出る副産物がコール タールで,この捨てるにもやっかいな代物を何とか利用する方法はないかと いうことで,主にイギリスで様々な有機化合物を人工的に作り出すための研 究が始まった.1819年にナフタリンが,42年にベンゼンが,54年にはクレ ゾールが生まれたが,それらはまだ実験室の中でのことで
あった.最初に工 業化に成功したのはモーブと呼ばれる紫色の人工合成染料で,これはおかし なことに,英王立化学学校の学生がコールタールからマラリアの特効薬であ るキニーネが作れないかという無茶な実験を繰り返している最中に,偶然フ ラスコの中で生まれたものだった.その美しい色はパリのファッション界で 人気を博し,たちまち同じようにして様々の合成染料が開発されて天然染料 が駆逐された.
 74年にはDDTが,79年にはサッカリンが,81年にはPCBが,それぞれ生 まれている.


◆塩素
 産業革命の結果,イギリスの繊維産業は飛躍的に発展したが,大きな難点 は,漂白を依然として「天日」に頼っていることにあった.ポプラなどの木 を燃して灰汁を作り,その中に含まれる炭酸カリを利用して晒すのだが,肝 心のポプラの木がたちまち枯渇してしまった.そこで,石鹸を作るために行 われていた,海水から炭酸ナトリウム(ソーダ灰)を取り出す方法を応用し て,炭酸カリの代わりに炭酸ナトリウムで漂白するようになり,それがやが て1888年に開発された食塩水を電気分解して塩素と苛性ソーダを取り出す 方法に置き換えられていく.
 こうしてソーダ工業が盛んになった.苛性ソーダは石鹸はじめ繊維産業, 製紙産業などに広く使われたものの,同時に生まれる塩素は余り使い道がな かった.それに捌け口を与えたのが第1次大戦で,ドイツが大量の塩素を使 って毒ガス兵器を製造した.この戦争は,化学兵器を本格的に使用した最初 の戦争で,フランスは対抗して青酸ガスを使ったが,これはドイツの塩素ガ スに比べて効果を発揮しなかった.
 ところが戦争が終わると,ドイツの塩素生産能力は再び過剰になり,そこ から,PCB,DDT,塩化ビニール,クロロホル


ム,フロンガス,ヘキサクロロ フェン,BHC,PCPなどといった有機塩素化合物を次々に開発しては大量生産 化するドイツ化学産業の大発展が始まった.塩化ビニールの製造が始まった のは1927年である.


◆石油化学
 こうして,石炭化学工業はイギリスで始まってドイツで隆盛を極めたが, 第2次大戦前から米国が石油科学工業に果敢に取り組み始める.最初の華々 しい成果は合成ゴムとナイロンで,前者は戦闘用の車両や航空機のタイヤに, 後者はパラシュート用に開発され大量生産された.安くて扱いやすい石油に 原料が置き換わったことで,化学製品の大量生産時代が始まり,それが米国 式便利生活を象徴するものとして世界中に広まった.1941年に15億ドルだ った米化学産業の生産額は,10年後には6倍近い88億ド ルに膨れ上がった. まさに,石油を支配する者は化学をも支配して世界に君臨することになった のである.
 日本では,その米国の強い影響の下,1950年代半ばに石油化学コンビナー トの建設が始まる.54年に有機合成化学工業の振興を求める国会決議が行わ れ,それに沿って翌年には通産省が育成対策を打ち出す.三井石油化学(岩 国),三菱油化(四日市),住友化学(新居浜)はじめ旧財閥グループが中心 となって,こぞって巨大臨海コンビナートを建設し,またそこに原料を供給 するために


米石油メジャーズに系列化された石油輸入企業も整備が進んだ. こうして石炭から石油への転換が強行され,60年に福岡県の三井三池炭坑労 組の合理化反対闘争が敗北したのをあざ笑うように,翌61年,日本の第1 次エネルギー供給源の筆頭に石炭に代わって石油がつくことになったのであ る.
 折から始まった高度成長を通じて安価で便利なプラスチック製品が都市に も農村にも溢れ返るようになり伝統的な素材を使った手仕事や風土に根差し た工芸などはたちまち衰退に向かった.
 石油精製は,原油を主に中東から運んでこれを揮発油,ナフサ(粗製ガソ リン),灯油,軽油,それに残渣油(重油)を取り出す.米国は当時すでに 自動車大国で,石油製品の半分をガソリンとして消費する一方で,石油化学 の原料には石油精製の際に生じるオレフィン系の排ガスや天然ガスを使って いた.その頃の日本にはまだそれほどガソリンの需要はなく,石油製品の10% 程度で,逆に火力発電や船舶燃料など産業用の重油が半分近くを占めていた. そのため,過剰気味のナフサを分解してエチレン,プ


ロピレンなどを作り, それからポリスチレン,ポリエチレン,塩ビモノマー,ポリプロピレンなど の汎用樹脂を作って,さらに多種多様なプラスチック製品や合成繊維・ゴム, 洗剤・溶剤などにして送り出した.そのような石油化学産業の成り立ちが, 日本をプラスチック大国に変えたのである.


◆塩化ビニール
 4大汎用樹脂と呼ばれるポリスチレン,ポリエチレン,ポリプロピレン, 塩化ビニールの中で塩ビの比重が極めて高いのが日本の化学工業の特徴であ る.
 日本で最初に石炭から塩ビを作ったのは日本窒素肥料(後のチッソ)水俣 工場で,1939年である.石炭を乾留してコークスにし,そこからカーバイド を取り出して,それに熱を加えて水に作用させるとアセチレンが出来る.そ のアセチレンに塩素を反応させて塩ビを作る一方,やはりアセチレンからア セトアルデヒドを取り出して塩ビの可塑剤オクタノールも製造
した.そのア セトアルデヒドを製造する際に触媒として水銀を使い,その水銀の一部が有 機水銀となって廃液に混じって海に流れ,魚を経由して人間の体内に蓄積さ れたために,後々「水俣病」が発生することになった.
 やがて石油化学コンビナートが創り出すポリエチレンに押され気味になっ た塩ビは,石炭原料をやめてエチレンから作られるようになり,安価で加工 しやすい塩ビが大量に生産されるようになった.ところがこの塩ビこそが公 害天国=日本の主役となるのである.まず,塩素を作


るための食塩水の電気 分解に水銀が使われる.このため各地で漁業被害が出て,73年には4つの化 学コンビナートが漁船によって海上封鎖される出来事があり,これを機に水 銀使用が中止された.また塩ビは燃やすと塩素ガスや塩酸ガスを出してダイ オキシン汚染をもたらす.さらに塩ビには鉛やカドミウムなどの重金属や, 可塑剤・安定剤・着色剤・難燃剤など様々な添加剤が混入されていて,汚染 を拡大する.


◆農薬汚染
 60年代を通じて農薬の使用も急速に増えた.58年に20万トン弱だった農 薬生産量は,69年には70万トン近くになり,面積当たりの農薬使用量は世 界ダントツ1位となった.
 戦後早々にはDDT,BHCなど有機塩素系の殺虫剤が全盛となるが,虫の神 経伝達機能を破壊して駆除する毒性を食品に用いていいはずがなく69年に 禁止となる.また有機リン系の殺虫剤パラチオンや有機水銀系の殺菌剤もよ く使われたが,これらも中毒患者が続出する事態を生み,同年までに禁止と なった.
 61年の農業基本法でひたすら農業生産の効率化をめざす方向が打ち出され ると,除草剤は強力なほどいいという風潮となり,PCP(パンタクロロフェ ノール)がもてはやされるようになる.米国で57年に7つの州で数百万羽 の鶏が一斉に変死する大事件が起きて,10年後になってようやくPCPによる ダイオキシン汚染が原因であったことが判明するが,日本はそうとは知らず にその年からどんどん使いだし,たちまち各地で漁業被害を発生させた.


 除草剤は戦争にも使われた.ベトナム戦争で次第に劣勢に立った米国は, ジャングルに身を潜めるゲリラを壊滅させるためにオレンジ剤,ホワイト剤 などの農薬を65〜70年にかけて総計6700万リットルも散布する「枯葉剤作 戦」を続け,とりわけその中に不純物として含まれていたダイオキシンが, ベトちゃん・ドクちゃんに象徴される先天性障害や染色体異常などの残酷な 被害を引き起こした.これらはまた,地上で作戦行動する米兵にも被害を与 えた.これらの農薬を作っていたのは,主に米モンサントである.


◆PCB
 ベンゼンからPCBが作られたのは1881年で,それを1929年になって米ス ワン社が工業化し,やがて同社がモンサントに買収されて大量生産される. 第2次大戦ではPCBが絶縁体として多用され,電気部品のほか塗料,ゴム, 樹脂などあらゆるものに添加された.戦後,お定まりで過剰になったPCBは, 今度は農薬に添加され,その効き目を持続させ強力にするのに貢献した.
 日本ではこのPCBが68年の「カネミ油事件」を引き起こした.北九州で 米ぬか油を製造していたカネミは脱臭のための
熱媒体としてPCBを使い,そ のPCBがパイプから漏れて米ぬか油に混入していたのに気づかずに出荷した. 九州北部を中心にこれを口にした約1万7000人が皮膚が腫れたり歯が抜け たり激しく下痢したりという恐るべき症状に襲われ,80人以上が死んだ.72 年にPCBの製造が禁止となるまで6万トン弱が日本で生産されたが,これが やっかいなのは捨ててもほとんど分解されないため,環境中でいつまでも循 環して生物に害毒を及ぼしつつあることである.


◆遺伝子組み替え
 このようにして,石油化学の世紀は,それが一体人間と自然にどんな影響 を及ぼすのか分からない人工的な有機化学物質を恐らく数千万種類も創り出 し,そのうち推計約10万種類を今も使い続けながら,お手軽に便利な文明 を築いてきた.悪影響が出て問題になったら生産を中止すればいいというの では,人類総体を対象に無慈悲な人体実験を繰り返しているのと一緒で,許 されることではない.慄然とするのは,昨今問題の遺伝子組み替え食品の開 発に最も熱心なのが,米国のモンサント,デュポン,ドイツ のヘキスト,イ ギリスのゼネカなど,巨大な多国籍化学資本だという事実である.
 20世紀的な化学的放埒がこのまま続く訳がないことを誰よりも知っている 彼らは,石油化学から生体化学に転身することで利益を確保する戦略に打っ て出た.例えば,現在のところ最も多くの種類が開発されているのは,除草 剤を1種類使うだけで生育する「除草剤耐性作物」で,これは除草剤を撒く 回数も量も少なくすることが出来るため,農家にとっては省力化となり,消 費者に対しては「低農薬」を売り物にすることが出来る.


しかも化学会社は その作物の種とその専用除草剤をワンセットにして販売して二重に儲けるこ とになる.さらに作物自体が殺虫機能を持つように改良された殺虫性作物と いうのがあり,これなら殺虫剤を使わない「無農薬」として売り出すことも 可能である.しかし,巨大化学会社が20世紀を通じてどのように振る舞っ てきたかを知れば,このようなものは到底口にする訳にはいかない.悪影響 が出たら生産中止というのではもう取り返しがつかない.


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