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vol.4
新 知的財産ウォッチング
〜 プ ロ ・ パ テ ン ト 時 代 〜
振譜 真朗

米国では建国時から
 昨年の6月からこの欄で私達が日常生活のなかで見聞きするいくつかの事柄についてそれらと知的財産のかかわりについてお話して参りました。今回は少し格調高く(?)、産業政策或いは国家戦略と言った視点から知的財産の問題を眺めてみたいと思います。
 この問題を語るときのキーワードは「プロ・パテント」(Pro-Patent)です。この場合のProはAnti(反)の対極を示す言葉ですので、プロ・パテントはそのまま訳せば「親特許」と云うことになりますが、通常はその実質的な意味を汲んで「特許重視政策」とか「特許保護強化政策」と訳されることが多いようです。
そしてこの際の特許とは新規な発明に対して与えられる特許だけではなく、もう少し広く知的財産一般を意味していると考えられます。
 さて、このプロ・パテントの考え方を意図的に産業政策或いは国家戦略として採用している国は米国です。では何故米国がプロ・パテント政策を採り、ここでとりあげるべき話題を提供することになるのでしょうか。


アンチ・パテント時代
 しかし、1929年の大恐慌が始まると、その要因の一つが特許による独占・寡占の弊害にあるとの認識の下に産業経済政策は一転し、特許による独占を制限し独禁法を優先させることになるわけです。これはその後約半世紀の間続く結果となりますが、これを「アンチ・パテント」の時代と呼んでいます。この時代には、特許権による市場の独占は大きな制限を受け、苦心の末に獲得した特許に対し、他者が実施許諾を申し入れた場合にこれを拒否すれば独禁法違反に問われるし、実施許諾をする場合も相手に課してはいけない条件に関する厳しい禁止条項があったりして、特許権者としての利点を享受することが極めて困難でした。そのような状況の下では特許侵害訴訟で勝っても得られる 損害賠償の額は知れたものでしたから、多額の投資を行い長期に亙る研究開発の結果得られる成果を十分に活用することができないことになり、特許制度のもつインセンティヴは殆ど生かされない状況でした。しかし、一方では大恐慌をニューディール政策等で切り抜け、第二次世界大戦にも勝利した米国は一時は世界のGNPの65%が米国で生み出されると云われた程の空前の経済繁栄を誇っていて、米国を脅かすものはない状況の下ではむしろ独占・寡占の弊害を除くことに政策の重点が置かれることになったのは極めて自然の成行きでした。かくして、AT&Tやスタンバックの分割、司法省によるIBMへの訴訟など独禁法が猛威をふるうことになったわけです。


国家戦略として
 しかし、1960年代に入り、日本を初め西独等欧州諸国、NIES諸国などが戦後の復興を果たし、米国を追い上げ始めると、さしもの繁栄を誇った米国経済も、特に成熟産業の分野から翳りが見えはじめます。そのあたりの経緯は日米貿易交渉の推移を見れば明らかで、繊維、鉄鋼、テレビ、工作機械、VTR、半導体・・・と云った順序で米国産業は追いつかれ、追い越されることになったのでした。
 このような状況に対し、米国は産業の活性化を図り国際競争力を回復するための方策の検討がなされ、種々の政策の提案がなされますが、知的財産政策の観点から重要なのは
1979年にカーター大統領が議会に送った「米国産業技術政策に関する大統領教書」で、この中に知的財産制度に関する言及がなされ、特許庁の能力強化による特許制度への信頼性の回復を図ると共に特許の有効性判断の一貫性を高め、かつ裁判の効率を改善するために特許侵害事件の控訴審を専属的に審理する連邦巡回控訴裁判所(CAFC)の創立を勧告し、また独禁法の適用緩和を提言しました。このCAFCは1982年に設立され次々とプロ・パテント判決を下して、独禁法の適用緩和と相俟って、'80年代にアンチ・パテントからプロ・パテント時代に移行して行くうえでの先駆けとなりました。


更に、'83年には強いアメリカを標榜して登場したレーガン大統領もカーター政権の方針を踏襲し、より拡充強化すべくその諮問機関として「産業競争委員会」を組織して米国の産業競争力回復強化の方策を問いました。委員会はあらゆる観点から徹底的な検討を行い、報告書をまとめました。これが世に謂う「ヤング・レポート」です。このレポートの提言はその後の大統領一般教書やUSTRの通商政策等に反映され、現在の米国のプロ・パテント政策を決定づけるものとなり、 この考え方に基づいて米国政府は米国の技術等を知的財産として国内外で十分保護することによって競争力を高め、国内市場の保護、対外進出の容易化を図ることとし、この政策を強力に推進するために通商法や関税法等の強化を行い、二国間及び多国間交渉を通じて米国の知的財産がより強く保護されるよう各国に関連する制度の改善を要求することになりました。


大競争時代を迎えて
 その結果、米国内においては特許権への保護が著しく強化され、特許侵害訴訟における原告(特許権者)の勝率はアップすると共に損害賠償の額も高騰しました。そのため、'80年代以降損害賠償額が数十億円に達するケースも珍しくなくなり、'92年にはわが国のミノルタ社はその自動焦点カメラがハネウェル社の特許を侵害するとして訴えられ165億円を払って和解したり、同じ年ゲーム機のセガもコイルという個人発明家の特許に抵触すると訴えられ、57億円の和解金を払わされました。また、'91年にはインスタント・カメラをめぐって ポラロイド社とコダック社が争い、敗訴したコダック社は史上最高と云われる1,200億円の賠償金を支払っております。こうして、'80年代以降我が国の輸出企業は軒並み侵害訴訟をしかけられ殆どが敗訴して大なり小なり賠償金や和解金を払うことになりました。一方、保護の対象となる知的財産の範囲を広げ、コンピュータ・プログラムやデータベースを著作権によって、また半導体チップの保護を独自立法によって保護することとし、同様の保護を行うよう他の国に対しても要求しました。


更に、医薬品等の物質特許やコンピュータ・プログラムを保護していない途上国に対しては個別交渉により保護の実施を強く要求してこれを実現し、また、ガット・ウルグアイラウンドでは、それまでは交渉項目に無かった知的財産やサービス貿易も交渉の対象として採りあげることに成功し、それはTRIPS協定として結実して加盟各国における知的財産の保護対象の拡大や保護レベルの引き上げ、権利行使についての基本原則を定めることになったのです。
 以上のように米国はプロ・パテント政策を国家戦略としておし進め国際競争力を回復することに成功しました。
米国は、'70年代から未だに貿易赤字に悩んでいますが、これは商品貿易についての話で、特許料収入等を含む技術貿易収支ではダントツの黒字国なのです。現在の米国の経済繁栄がすべてプロ・パテント政策によるものであるわけでは勿論ありませんが、その大きな柱となっていることは疑いありません。
 空前の大不況に悩む我が国も三年程前から特許庁がプロ・パテント政策を唱導し始め、今年になって首相の諮問機関として「産業競争力会議」が設置され産業経済の回復発展のための施策について種々議論がなされているようですが、成功を期待したいものです。



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