研修医になりたてのとき、重症の肝障害の女性患者を担当したことがあります。重症とは言っても、毎日私と冗談を飛ばし合えるくらい元気で、家族も熱心に看病に来院していらっしゃいました。「私、いつ治るかな」という問いかけに「今日の採血結果 ではまだまだですね。」と答えていましたが、肝機能は次第に悪化し、黄疸が強くなり、眼球の結膜も皮膚も黄色くなってきました。種々の検査をして肝臓が回復する見込みがないとの結論に達したときは「このまま少しずつ死を迎えるのか」と自分の無力さに愕然としました。まだ、日本では生体肝移植はポピュラーではありませんでした。幸いなことに家族が非常に海外の医療情報に詳しく、経済的にも人間関係的にもその情報を実現する力がある人たちでした。移植目的で退院し、オーストラリアで肝移植を受けました。私は自分の患者を日本で救うことが出来ず、独力で海外で治療を受けたという事実がとても残念でした。
 それから約10年、日本でも移植が本格的に始まり、生殖医療もポピュラーになりました。ヒト・ゲノム・プロジェクト、胚幹細胞(ES細胞)技術、クローン技術も発展して、いよいよ生命の情報源である遺伝子を「自由に操ること」まで視野に入って来ました。医学、分子生物学の発展で、多くの病気の原因が解明されてきました。ゲノムプロジェクトによりさらに多くの疾患の原因が解明されることでしょう。しかし、病気の原因の解明と治療法の確立は少し別 の話です。たとえば自動車の故障の原因が解っても故障を取り除くか、部品を取り替えるかの必要があるのと同じです。取り替える部品がなければどうしようもありません。ES細胞はどの臓器の細胞にも分化させることが可能な細胞です。ES細胞を障害を受けた臓器に分化・成長させて取り替えればよいのです。クローンはまさに自分と同じ人体です。クローン技術を応用すれば障害を受けた臓器を取り替えることが可能と期待されます。現在実現している臓器移植や人工授精などの技術は大いに人類に役立つでしょう。これこそ「ブラックジャック」の漫画を通 して私達の世代がずっと夢に見てきた医療の未来像ではないでしょうか。
 しかし、本当に遺伝子操作をしたりES細胞などを移植したりしてもよいものでしょうか。私はES細胞と言うと学生時代の「テラトーマ」の講義を思い出します。テラトーマは産婦人科領域の悪性腫瘍ですが、腫瘍細胞が分化して腫瘍内部に歯や毛髪が見つかることがあります。こうした異常である可能性を秘めた細胞が精子や卵に分化して子孫に伝えられたらどうなるのでしょうか。場合によっては怪物を作り出してしまうのではないでしょうか。クローン技術にしても体細胞を何度も分裂させて本当に安全なのでしょうか。
 私のいるイギリスは先端医療に対して極めて積極的な国です。私の研究室も研究用の臨床サンプルを週何例も入手しています。協力的な患者は「persuasive」と言う表現で把握されています。
 また、インペリアル・カレッジの病院群の一つ、ハマースミス病院がパーキンソン病の治療に覚せい剤の一種、エクスタシーが有効と報告し、テレビで特集をしていました。エクスタシーはヒトを廃人にします。在英のパーキンソン病患者団体も「注目しているが、治療法としてエクスタシーを認めることは決してない」と述べていました。しかし、患者はそれを承知で服用し、研究に協力し、さらに、ManchesterのグループやKing's Collegeのグループも参加して、様々な研究を行い、新しい知見が得られ、新しい手術法も開発されていくのです。
 イギリスの生殖医療の分野では、「人工授精で白人のカップルに黒人の双子の赤ちゃんが生まれた」という衝撃的な事件もありました。NHS(National Health Service)の職員が白人カップルの精子と卵子に、別の黒人カップルの精子と卵子を混ぜて受精卵を作ったのが原因です。日本やアメリカ・EUの一部では倫理的な側面 から生殖医療への反対もありますが、BBCは「人工授精は人がなせる業だ。そして、人はヒューマンエラーを起こすものだ(It is a human business, and human makes a mistake,)」と報じ、倫理的な面 には触れませんでした。
 積極的なのは医療の分野だけではありません。6月には、Golden Jubilee(女王陛下即位 50周年記念)がありました。エリザベス女王が黄金の馬車に乗り、バッキンガム宮殿からパレードを行いました。そのあとに女王陛下の保有する武器の大砲や鉄砲が続き、さらに市民の表敬パレードとなり、最後は航空機によるパレードとなりました。空軍の爆撃機やコンコルドが女王の頭上を飛んでいくのです。ロシアの航空ショーでの墜落やシャルル・ド・ゴール空港でのコンコルドの爆発事故のように飛行機は落ちるものです。日本では、天皇陛下の頭上を飛行機が飛ぶなど想像も出来ません。また、日本で飛行機と言うと騒音公害の元というイメージがありコンコルドの乗り入れも日本では実現していませんが、イギリス人はひときわ大きな轟音を立てて飛んでいくコンコルドを見て発する形容詞は、年寄りも子どもも「fantastic」なのです。
 ヒースロー空港に着陸する飛行機はテムズ川に沿って飛びます。夜の9時半くらいまでは30秒から1分に一機くらいの割合で飛び、最後の飛行機は午前1時頃です。私が「日本の大阪空港の飛行機の離発着は8時までだ」と言っても誰も信じてくれません。
 イギリスは科学技術に対してとても敬意を払っている、と言ってよいでしょう。人口は日本の半分(日本約1億2,692万人に対し、イギリス約5,976万人)、一人当たりのGDPも日本の7割くらい(日本24,368ポンド、イギリス17,411ポンド)であるにもかかわらず、英連邦を維持し世界をリードしていく原動力はここにあるのではないでしょうか。確かに自動車やコンピューター、電化製品はイギリスでも日本製品が圧倒しています。しかし、イギリスはもう次を見ているのではないでしょうか。そういえば、クローン羊もイギリスで生まれ、ヒト・ゲノム・プロジェクトも初期から貢献しています。産業革命もこの国からはじまりました。
 患者と接していると、どうしたらよいだろうかと、私は度々悩みます。ある肺癌の患者が原因不明の上肢麻痺になり入院してきたときは、癌の転移か、抗癌剤によるものか、放射線によるものか、神経に対する特異な抗原を癌が産生したのか、サッパリわかりませんでした。医学に理解のある患者で、学会発表にも積極的に協力してくれましたし、死後、病理解剖をして欲しい、と患者本人から言われていました。ところが、亡くなった直後、家族が病棟で泣いて解剖を拒否しました。私も情に流され、解剖をしないことに同意しました。しかし、1ヶ月ほどして、学会の私の発表をきいた外国の製薬会社の方が、「もしかしたら未知の副作用かもしれないので話を伺いたい」と私を訪ねてきました。そのとき、医師としてもう一度家族を説得すべきだったと、ベストの努力をしなかった自分にすごく恥ずかしい思いをしました。私は医学の発展は重要だとわかっているつもりですが、実際には、倫理的に、感情的に、社会的に悩み、躊躇してしまいます。
 私にはイギリスは極めて積極果敢な国にみえます。パーキンソン病の治療に覚せい剤を使う国です。女王陛下の頭上にコンコルドを飛ばし、夜中まで飛行機を飛ばす国です。白人カップルに黒人の子供が生まれるという事態で鍛えられた国民です。日本がどう結論し、アメリカやEUのキリスト教勢力がどう考えようと、いかなる議論を交わそうとも、間違いなく、イギリスはヒト・クローンも、ES細胞医療も実現に向けて強力に突き進むでしょう。イギリス人は昼には昼しか出来ないことを、夜には夜しか出来ないことをやり遂げます。かつてガンジーはイギリスについてこう言いました。
 「大英帝国には日が沈まない。神がそれを望まないのだ。神は、夜のイギリス紳士の行いを知っておられる・・・」

PROFILE

1968年生。1993年東大医学部卒。英国インペリアル・カレッジ国立心肺研究所に留学中。医学博士。日本内科学会専門医。